ウィリアム・ユージン・スミスはアメリカのフォトジャーナリスト(報道写真家)です。彼はフォト・ジャーナリズムの歴史に偉大な足跡を残しました。
スミスはカンザス州ウィチタで生まれ育ち、14歳の頃から写真に興味を持ち始め その3年後には地元の新聞の写真を撮り始めました。彼は写真奨学金を得てノートルダム大学に入学しましたが、1年後にニューヨークに移り、ニューズウィーク誌のスタッフとなり『LIFE(ライフ)』や『Collier’s(コリアーズ)』『Harper’s Bazaar(ハーパズバザー)』『The New York Times(ニューヨークタイムズ)』などの出版物でフリーランスとして活躍しました。第二次世界大戦中はZiff-Davis出版社とLIFE社の太平洋戦争特派員として米軍と共に、サイパン、グアム、硫黄島、沖縄で米海兵隊と日本の捕虜を撮影しました。そして1945年 沖縄戦の撮影中に迫撃砲により重傷を負いました。2年間の療養後、彼は雑誌に復帰し『Country Doctor(カントリー・ドクター)』『Spanish Village(スペインの村)』、『A Man of Mercy(慈悲の人 アルベルト・シュバイツァー)』などフォト・エッセイを数多く発表しました。1955 年には国際写真家集団マグナム・フォトに参加し、1956年と 1957 年にはグッゲンハイム・フェローシップを受賞しました。
スミスは『LIFE』や『Pageant』、『Sports Illustrated』などの定期刊行物のためにフリーランスとして活動を続けました。1959年から1977年まで彼は日本の日立に勤務し、ニューヨークのニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチとスクール・オブ・ビジュアル・アーツ、ツーソンのアリゾナ大学で教鞭を執りました。1970年スミスは51歳の時、アイリーン・スプレイグ(アイリーン・美緒子・スミス)と出会い結婚しました。
1970年代に彼は妻のアイリーンと共に日本の水俣に住み込み、チッソ株式会社の引き起こした「水俣病」を取材し、彼の最後のフォト・エッセイとなった『水俣(MINAMATA)』を完成させ出版し、世界中で大きな反響を呼びました。その後スミスとアイリーンは離婚し、スミスはアリゾナ州ツーソンで晩年を送り1978年に亡くなりました。
彼の死後、フォト・ジャーナリズムの発展に多大な貢献をした彼の功績を称え 彼が確立した伝統の中で活躍する写真家のプロジェクトを支援するため、W.ユージン・スミス記念基金が設立されました。
今なお続く水俣病の惨禍を世界に伝えたウィリアム・ユージン・スミスの姿を描いた映画『水俣(原題:Minamata)』が、2020年2月ベルリン国際映画祭で披露され世界の注目を集めています。スミス役を俳優ジョニー・デップが演じたことでも話題となっています。
▼マグナム・フォトのウィリアム・ユージン・スミス紹介ページ はこちらから
https://www.magnumphotos.com/photographer/w-eugene-smith/
▼ユージン・スミス・メモリアル基金 公式サイトはこちらから
https://www.smithfund.org/
▼環境ジャーナリストとして活動するアイリーン・美緒子・スミスの運営するアイリーン・アーカイブの公式サイトはこちらから
http://aileenarchive.or.jp/