ウジェーヌ・カリエールは 褐色の靄がかかったような独特の絵画手法で知られるフランスの画家です。
カリエールはグルネー=シュル=マルヌで生まれストラスブールで育ち、リトグラフを学びました。父には画家になることを反対されていましたが、アレクサンドル・カバネルのアトリエのあるパリのエコール・デ・ボザールに入学し、自然観察や美術館巡りをしながら独自の素養を育んでゆきました。
その後 結婚し7人の子供をもうけ、家族を養うためセーヴル磁器製作所での皿やカップの装飾や、家具の装飾の仕事など 様々な仕事をしていたカリエールですが、オランダの巨匠たちに触発されて描いた作品をサロンに出展し、評論家やコレクターに評価されるようになりました。そしてフランス芸術家協会のサロンに出品した『病める子(1885年)』は国家買い上げとなったのです。そしてカリエールは ポール・ヴェルレーヌやポール・ゴーギャン、アルフォンス・ドーデ、オーギュスト・ロダン、ジョルジュ・クレマンソー、アナトール・フランスなど 文学や芸術、政治の世界で活躍する人物と知り合い、彼らの肖像画を描きました。
1880年代カリエールは 彫刻家のオーギュスト・ロダンと親交を深め、その友情と美意識を共有していました。ロダンは1900年にアルマ宮殿で開催された彼の展覧会のポスターとカタログの序文をカリエールに託しました。カリエールは1891年に初の個展を開催し、1889年と1900年には万国博覧会へ参加しました。サミュエル・ビングの「アール・ヌーボー」や ロダンやピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌと共に開催された展覧会など、次々と展覧会が開催されました。
サロンなどへの出展を重ねる一方でカリエールは若い画家たちの教育にも力を入れ始め、1898年には画塾「アカデミー・カリエール」を創設しました。アカデミーの教え子であったアンリ・マティスやアンドレ・ドランらは自由な創造性を発揮し成長してゆきました。またカリエールはパリ万国博覧会のポスターやヴィクトル・ユーゴーの挿絵を描き、サロン・ドートンヌの創設に関わるなど精力的に活動しました。
1906年ウジェーヌ・カリエールはパリで亡くなりました。
▼公式サイトはこちらから
https://www.eugenecarriere.com/