ジャン=ピエール・パンスマンは1944年フランス生まれ。絵画の物質的な特性と概念的に及ぼす影響に焦点を当てた研究に基づいた実践で知られています。
パンスマンは工場の金属旋盤工として働き始めましたが、初めてルーブル美術館を訪れた際に、絵画への情熱をかき立てられ工場を辞めました。美術評論家として活動した後、両親の隣人であった画廊オーナージャン・フルニエの勧めで、独自の絵画や彫刻の制作を始め、1968年に個展を開催。伝統的な筆を使わず、レンガや波板鉄板、金網などで描いた身体性を伴う絵画作品群を発表しました。
その後まもなく、パンスマンは、絵画や彫刻とその構成要素を考察するフランスの有名な芸術運動、Support/Surface (シュポール/シュルファス) の一員となります。この運動の背後にあるコンセプトは、絵画の物理的現実に焦点を当てることでした。マティスの切り抜きに触発されたこの運動は、新しい抽象性とHard Edge(ハードエッジ)を特徴とし、フランスでも米国でも影響をもたらしています。
運動が成功に終わった後も、パンスマンは絵画の手法に疑問を呈し、新たな作品シリーズで絵画面の完全性を問い続けました。1973年以降、さまざまな色調に丹念に染めた上げた複数のキャンバス地を切り抜いて長方形の形に並置した作品を制作。結びついた形は、ひとつの作品を作り出しながらも、それぞれが個別に制作されています。最終的に形成された絵画の表現は、各色の制作過程や、それぞれの要素の相互関係を観る者へと問いかけます。
1990 年代の終わりにはパンスマンは、すべてを捨て、すべてを吸収することを決意します。これは、あらゆるスタイル、あらゆる支持体、あらゆる技法、あらゆるジャンルを意味しました。関節炎に悩まされていたにも拘わらず、パンスマンは、塗装した木の切れ端をホッチキスで留めた多彩なアサンブラージュを制作。また、タールを含むオイル、含まないオイルを混ぜる、他の独特の混合物を使用するなど、色々な材料を試み、キャンバス、紙、写真ポスターなど多様な媒体に展開しました。
こうした実験的な作品を通して、パンスマンは芸術表現の構造を包括的に考察し、それぞれの物理的要素の意義を吟味してきたのです。