スチュアート・デイヴィスはジャズ・ミュージシャンや街並み、風景などを鮮やかな色彩で抽象化した作品で知られるアメリカのモダニズムの画家です。デイヴィスはアメリカ文化のパイプ役であり、彼の代表作の一つである『The Mellow Pad (1945–1951)』のように 生き生きとした形や集合的コンポジションを通して、自身の経験をダイナミックに作品に変換しました。
「私の形の概念は非常にシンプルで 空間は連続的で、物質は不連続であるという前提に基づいています」
「私の形式的概念では、2つ以上の次元の問題は入りません」
デイヴィスは1892年ペンシルバニア州フィラデルフィアにて、彫刻家ヘレン・スチュアート・フォークとフィラデルフィア・プレス(新聞)の美術編集者エドワード・ワイアット・デイビスのもとに生まれました。高校を中退後、ニューヨークでアッシュカン派(アッシュカンスクール)の画家ロバート・ヘンライに師事ましたが、初期のデイヴィスは写実主義的なスタイルの絵を描いていました。ヘンライの助言を受け、デイヴィスは 路地裏やサロンに足繁く通い、左翼政治の世界に積極的に参加するようになりました。そして1912年には社会派の週刊誌『The Masses』のイラストレーターとして活動を開始しました。
彼は1913年に開催されたアーモリー・ショーに出品したことで有名になりました。そしてこの展覧会で初めてマティスやピカソの作品に触れたことをきっかけに、様々な前衛スタイルを実験しモダニズムを追求し始めました。1920年代になるとデイヴィスの作品は写実主義的なものから、今日最もよく知られているような抽象的な構図へと変化してゆきました。1926年にホイットニー・スタジオ・クラブ(現ホイットニー美術館)で個展を開催し、翌年 エディス・ヘルパートのダウンタウンギャラリーに参加し、成功を収めました。1928年にはホイットニー・スタジオ・クラブのディレクターであるあるジュリアナ・フォースが彼の作品を2点購入し、彼はパリに旅行できるようになり、後にモンパルナスに住み パリの街並みを描き始めました。
1930年代から1940年代にかけてはアート・スチューデント・リーグや新社会研究学校(New School for Social Research)で教鞭をとりました。世界恐慌の時代になるとデイヴィスの作品は、資本主義への批判的な態度を強めてゆき、絵画を自分の政治的見解のための手段として使用するようになりました。1950年代には前衛芸術の最前線に立つことが出来なかったデイヴィスですが、1952年と1954年のヴェネツィア・ビエンナーレにアメリカ代表として参加しました。1956年にはアメリカ芸術文学アカデミーに選出され、1958年と1960年にはソロモン・R・グッゲンハイム美術館国際賞を受賞しました。
デイヴィスは1964年ニューヨークで亡くなりました。
現在彼の作品は シカゴ美術館、ワシントンのナショナル・ギャラリー、ニューヨークのホイットニー美術館などに収蔵されています。