ハンス・ベルメール
Hans Bellmer
1902年−1975年
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ハンス・ベルメールは1902年、当時のドイツ帝国(現在のポーランド)・カトヴィッツ出身の芸術家です。ベルリン工科大学中退後、小説の表紙や挿絵を手がけたり、デザインを請け負う事務所を開いたりしながら生計を立てていましたが、1933年にナチスが政権掌握するとそれに抗議し、社会貢献としての職業を放棄してしまいます。同年にフリーのアーティストとなり、人形制作に着手。その作品はパリのシュルレアリストの賞賛を受け、機関誌「ミノトール」の表紙を飾ります。するとその名声は世界中に広がっていきました。
1935年、16世紀ドイツの球体関節を持った木製の人形との出会いにインスピレーションを受け、厳しく暴力的な父への反抗心と、優しく可愛らしい母への愛情という心理的背景のもと、少女をモチーフとした球体関節人形の制作を始めます。第二次大戦後はパリに移り、人形づくりをやめ、シュルレアリスム風でエロティックなドローイング、エッチング、性的表現の露骨な写真、版画などを制作しつつ、終生を過ごしました。その制作期間こそ短かったものの、ベルメールの球体関節人形は日本の球体関節人形の創生に大きな影響を及ぼしています。