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ARTIST/ART

喜多川歌麿
Kitagawa Utamaro
1753年-1806年

喜多川歌麿は江戸時代後期に活躍した美人画の大家として知られる日本の浮世絵師です。姓は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改めました。名は信美。初めの号は豊章といい、歌麻呂、哥麿とも号しました。

狩野派の町絵師・烏山石燕に師事し役者絵や絵本を制作し、最初の作品は1775年(安永4年)北川豊章の落款で描いた中村座の富本節正本『四十八手恋所訳』(しじゅうはってこいのしょわけ)下巻の表紙絵であろうといわれています。錦絵においては1777年(安永6年)の「すしや娘おさと 芳沢いろは」でした。版元蔦屋重三郎のもとより出版した狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』(1788)や『汐干のつと』、『百千鳥狂歌合』(1790頃)で鳥や花、虫や魚貝類などを精緻に描き好評を博しました。

1790年代(寛政前期)『ビードロを吹く娘』(1793年頃)を含む10枚の大判錦絵の揃物『婦人相学十躰(ふじんそうがくじゅったい)』や、実在した評判の美人娘を描いた『当時三美人』(1793年頃)など、画面に大きく半身像を描いた大首絵を(おおくびえ)を次々と発表しました。背景に雲母摺(きらずり)や空摺(からずり)といった技法を効果的に用い、髪の一本一本の毛流れや肌の質感、着物の小紋など細部にわたり繊細に表情豊かに描き出した歌麿の絵は庶民の絶大な人気を得ました。モデルとしたのは茶屋の看板娘から遊女まで幅広く、美人画は当時の庶民にとってブロマイドやポスターのようなものでした。また歌麿は髪形や着物の柄や組み合わせなど、女性の興味を満たすべく流行を研究しアイテムをいち早く絵に導入しました。浮世絵はいわばファッションメディアとしての役割を担うようなものでもありました。
一世を風靡した歌麿ですが1804年(文化元年)豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした『太閤五妻洛東遊観之図』を描いたことがきっかけで幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受けました。この刑ののち歌麿は非常にやつれ、病になったと言われています。しかし裏腹に歌麿の人気は衰えず、回復する見込みがないと知ると これが最後と依頼が殺到したと言います。そして二年後の1806年(文化三年)歌麿はこの世を去りました。

1952年に銀座松坂屋で公開され後、所在不明となっていた大作『深川の雪』(1802-06年頃)が2012年に半世紀ぶりに発見され話題となりました。『深川の雪』は箱根、岡田美術館に収蔵されています。

▼岡田美術館の公式サイトはこちらから
https://www.okada-museum.com/

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