ジーン・ネグレスコはルーマニア系アメリカ人の映画監督兼脚本家であり、画家です。彼は初めフィルム・ノワールで注目を集め、後に『ジョニー・ベリンダ』(1948)、『百万長者と結婚する方法』(1953)、『タイタニック』(1953)、『愛の泉』(1954)などの注目すべき映画を制作し「シネマスコープの最初の本当のマスター」と呼ばれていました。
ネグレスコはルーマニアのクライオーヴァで生まれ、第一次世界大戦中は軍の病院で働きました。戦傷者のために作曲家ジョルジェ・エネスクがバイオリンを弾きに来た際 ネグレスコは彼の肖像画を描き、エネスクはそれを購入しました。ネグレスコは画家になることを決意し、ブカレストで美術を学びました。その後1920年に彼はパリへ行き、アカデミー・ジュリアンで絵画を学びました。また彼は 彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシの下で絵の描き方を学びました。これはネグレスコにとって、トリスタン・ツァラやフランシス・ピカビア、マン・レイ、ジャン・コクトーなど当時の芸術的エリートたちと近づく機会を与えてくれた重要な出会いとなりました。
ルーマニアに戻った彼はすぐに画家として認められ、150点もの絵画を販売し、ルーマニアのマリア王妃を描きました。その後再びパリに戻り、しばらく舞台装飾家として働いた後コート・ダジュールに移り、ニースのホテル・ネグレスコでプロのダンサーとして稼ぎました。コート・ダジュールでは映画監督レックス・イングラムに出会い、イングラムは彼の絵を購入しました。
1927年ネグレスコは多くの人に絵を見てもらうためニューヨーク旅し、滞在することを決めました。そして1930年頃にハリウッドに到着しました。時が経つにつれ 依頼を受けて肖像画を描き、終わりのないパーティーやプレミアに出席することに飽き飽きしていた彼は、映画製作という新たな夢を追い求めることを決意しました。
そして自身で脚本、監督を務めた実験的長編映画『Three and a Day』を制作(未公開)後、パラマウント・ピクチャーズに就職、彼の絵は『テンプル・ドレイクの物語』(1933年)の絵コンテとして使われ、すぐにプロデューサーのベンジャミン・グレイザーのアシスタントになりました。1940年にはワーナー・ブラザースと8年間の契約を結び、短編映画の監督を務めました。その後ネグレスコは1970年までスタジオのために『大富豪と結婚する方法』(1953年)、ローマで撮影された『泉の中の3つのコイン』(1954年)、『ウーマンズワールド』(1955年)などの大ヒット作を含む22本の映画を制作しました。
彼はハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星をハリウッド・ブルバード6212番地に持っています。
1970年代にひっそりと引退した彼は、最後の20年を妻のダスティと共にスペインのマルベーリャで過ごし、画家としての活動を再開し、美術品の収集にも専念しました。1984年にはネグレスコの自伝『Things I Did and Things I Think I Did』が サイモン&シュスターから出版されました。