ピエール・ドミトリエンコは いわゆるリリカル・アブストラクションを確立した世代に属するフランスの画家であり彫刻家です。パリ派の抽象主義者として有名になり、成功を収めました。
ドミトリエンコはパリでロシア人の父とギリシャ人の母のもとに生まれました。戦後まもなくパリのエコール・デ・ボザールで建築を学んだ後 絵を描き始め、フランソワ・アルナルやセルジュ・レズヴァニなどの画家たちと親交を深めました。ドミトリエンコは数多くのグループ展に参加し、本格的デビューは1948年にレイモンド・メイソン、ジャック・ランズマン、ボーディニエール、シグノベールなどのパリの若い抽象画家たちが参加するマーグ画廊のグループ“Mains éblouies”に参加した時から始まりました。
1950年代の初めにはパリで初個展を開催し、サロン・ド・メやサロン・デ・レアリテ・ヌーヴェル(1957)などの展覧会や国際的なグループ展に参加し、多くの賞も受賞しています。初期には彼はアルベール・グレイズの影響を受け、彼を通じてキュビズムの影響も受けました。その後彼はパウル・クレーを発見し、クレーのようなリリシズムをもって自由に現実を探求し始めました。1950年~1960年代、彼は様々なテーマでロマンティックな絵を描く喜びを表現しました。インスピレーションの源となる場所、記憶に残る風景の光や心理的影響を捉えようとしました。
1960年ドミトリエンコは印刷機を手に入れ 1973年頃までマーグ画廊やロンドン・アートグラフィックなどのために彫刻やリトグラフを制作するなど 200点以上の作品を生み出しました。そして1965年以降は彫刻家として活動し、ニューヨークでマーク・ロスコに出会いました。
晩年の彼は 絶対的なリリシズムから脱却し、芸術を極限まで緊縮させました。その頃のドミトリエンコについて「世界の残虐行為に対する恐怖を、あらゆる側面から表現する義務があると表明し、彼自身がそれを望んでいた」と、同じく画家のジャック・ビュースは書いています。
ドミトリエンコは1974年パリで亡くなりました。
彼の作品はフランス、イギリス、ベルギーなどの美術館や個人のコレクションに収蔵されています。