田名網敬一は東京生まれのアーティストです。グラフィックデザイン、イラストレーション、アニメーション、実験映画、立体作品、絵画など ジャンルやメディアにとらわれない表現で1960年代から第一線で活躍し続けています。
派手な極彩色で描かれるポップでシュール、奇抜な彼の作品をどこかで一度は目にしたことがあるかもしれません。描かれるものは「夢」や「記憶」、「幻想」など様々な彼自身の実体験に基づいています。アメリカンコミックを引用したアメリカの爆撃機、サーチライトや擬人化された爆弾、うごめく鶏や金魚などのモチーフは 田名網が幼少年期に体験した戦争の記憶に深く関係しています。
彼の画面には彼の敬愛するアーティスト達の作品やSF雑誌や漫画のキャラクターなどの引用も見られます。戦争が終わった後に出会った『黄金バット』や山川惣治の絵物語『少年王者』などの紙芝居や、少年期に夢中になり毎日のように鑑賞していたという映画も、彼の創作の原点になっています。
高校生の頃にはすでに人一倍絵が得意だった田名網は自然と美術大学進学を目指し、武蔵野美術大学デザイン科へ入学しました。在学中から雑誌のエディトリアルデザインを依頼され、雑誌『マドモアゼル』のアートディレクションを務め、この頃からネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの中心人物であった篠原有司男との交流が始まりました。武蔵野美術大学を卒業後は博報堂に入社するも、個人的仕事のオファーが多すぎたために僅か一年で退社しました。その後1960年代を通し、イラストレーター、グラフィックデザイナーとして活躍する傍ら、当時としては最新メディアであった映像作品の制作も手掛け始めます。1967年田名網は初めてニューヨークを訪れ、当時イラストレーターからアーティストに移行する過程にあったアンディ・ウォーホルの活躍、作品を生で体験しアートの新たな可能性を確信し、ウォーホルのように一つのメディアに限定せず色々な方法でやっていこうと思えたのでした。
ベトナム戦争や日米安全保障条約改定、中華人民共和国文化大革命、オイルショックなど激動の時代を反映しながら躍進していった田名網は、カウンター・カルチャーを牽引し絶大な人気を誇りました。1975年には雑誌『PLAYBOY』の初代アートディレクターに就任、本社を訪れるべく再び訪れたアメリカで ウォーホルのスタジオ“The Factory”を訪れ 強烈なカルチャーショックを受けた経験から、あらゆるタブーを挑発した作品を多く制作しました。1981年には過労から大病を患い生死の境を彷徨いました。その後、入院中に毎晩幻覚にうなされた経験からさらに、新たな創作意欲を得ることになりました。
田名網の創作活動は絵画や映像、版画、アニメーションや実験映画、立体作品など 現在も尽きることなく進歩し続け、世界中のアーティストやミュージシャン、ファッションデザイナーなどから尊敬を集めており、コラボレーションも数多く手掛けています。
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